巻頭言集26-30
月報「活けるキリスト 一麦」巻頭言集 松原和人著
2009年2月第3週から週報に巻頭言集から抜粋し、「今週の霊想」として、毎週掲載しています。
- 第26号より 1956年(昭和31年)26月 『聖霊のバプテスマに就いて』
“汝らは日ならずして聖霊にてバプテスマを施されん。聖霊汝らの上に臨むとき、汝ら能力を受けん、而して地の極にまで我が証人とならん”(使徒1:5、8)
聖霊のバプテスマに就いて
生れたままの人は神様の在すことさえわからず、自己中心の考えと行動とにより、種々の罪を犯して、滅亡の途を辿っているのである。かかる罪人を、神は愛の御手もて導き、悔改めしめて十字架による罪の赦しを体験せしめ、イエス・キリストを救主と信ぜしめ給うのである。これを新生―霊の革命―と云う。爾来(ジライ)、物の見方が変り、白己中心から神第一の生活へ…此世(コノヨ)本位から永遠の御国を慕うものと造り変えられ、おのずからに行為も一変して来るのである。救われた歓喜は天にも昇る心地して、ただ嬉しく、人生の意義、目的も判然として、生れて初めて生き甲斐を感じ、満足感を味うのである。
さり乍ら、月日が経つにつれて、その喜びの感情は次第に消失し、又もや弱点を曝露(バクロ)し、実際上の罪を犯すに至り、遂には救われたことさえ疑うことがある。それは救われたことには問違いはないのだが、徹底した聖潔に迄至っていない為、未だ罪の根‐白我‐が死に切らないが為にそうなる。
そこでどうすればこの自我‐傲慢、肉慾、不信仰、利己等‐から釈き放たれるかをひたすら祈り求めて、聖霊の盈満(エイマン)に迄至らねばならぬ。それが為には、罪の徹底せる告白をして、それから手を切ること、一切を献げ終る事が要請される。十字架の血潮はいかなる罪をも潔めるに十分であり、凡てを献げて待ち望むものに主は必ず応え給うお方である。多くの人が求めつつも尚、聖霊に満たされえないのは、自己流の献げ方に終っていて、神様の要求し給う程度に迄献げていないからである。あなたは未だ能力なきを覚え居らるるか、もう一度、真実もて求めて御覧なさい。主は懇(ネンゴ)ろに導いて、今迄気付かなかった献ぐべきものをおしめし下さるでありましょう。さて目に見ゆるものはまだ献げうべし、されど献げて献げられぬのが心中深く根ざす罪の本質―自分の力でやろうとする本能性―である。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」である。これは人間の力ではどうにもならぬ。ただひたすら祈り求めるものをして、聖霊よく導き、美事ヨルダン河を渡らしめ給う。これ全く神の御業というの外はない。謙(ヘリクダ)ってただそのままお任せ申上げた者を、主はいとも妙に扱い給う。その人は、さしもの自我も十字架上全く磔殺(タクサツ)され居ることを鮮かに体験するであろう。聖霊はやがて臨んで明確に―その人を占領し給うのである。爾来(ジライ)、無理なくいつも十字架上に死に続け、かつ満され続けることが出来る。聖霊の臨んだ事―聖霊のバプテスマ―は転機であり、それからは、たえず、日々に新しく満さるべきで、その満しは益々増大すべきである。
聖霊のバプテスマの時、徴とか、感情とか、異常な顕現とかを期待すべきではない。聖書にはそう云うしるしの伴った場合も時々は記されてあるが、大切なのは、あらわれの如何でなく、確信の如可である。その後罪に打勝つことが出来ているか、奉仕に能力があるや否やが問題である。
- 第27号より 1956年(昭和31年)3月 『生活問題とキリスト教』
“先ず神の國と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし“(マタイ6:33)
生活問題とキリスト教
イエス様を信ずると、心の平安をえられるのみならず、経済面にも行き詰りがないとは何たる感謝なことであろう。
”天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給うなり”(マタイ6:32)
空の鳥を養い、野の百合を育て給う神様は、われらに何が必要かをちやんと知っていらっしゃる。私共に何も無くとも天のお父様のところには何でも無尽蔵にある―世界とその中にあるものは皆神様のもので、神様のものは又、私共のものである。必要に応じ、時に適って、神様はいくらでも天国銀行の窓を開いて、私共へお恵み下さるのである。
私は14、5年前、名古屋に伝道を開始するに当って「必要については決して人に依頼せず、見えざるに在す神さまのみをあてにします」とお誓い申し上げたのである。この教会が、月定献金をしないのは、その主旨によるものである。時は戦時中、初めは会員一人もなし、餓死を覚悟して
“視よ我新しき事をなさん頓て起るべし”(イザヤ43:19)
との聖言のみを頼りに伝道して来たが、不思議に神様は今日迄お支え下さった。無鉄砲なやり方だが、みこころを伺っては、ただ従って来た。主は何もかも知っておいでになって、米の要るときは米を、炭の要るときは炭を与えて下さった。人をあてにせず、神様をあてにしていると思わぬ人から与えられる。人をあてにすると、あてがはずれることを実地に学んだ。
”わがたすけは、天地をつくり給えるヱホバより来る”(詩121:2)
この3月31日は、我が教会献堂八周年記念日に当る。この会堂が与えられた時も、1月間に50万円を支払う必要に迫られた。何のあてもなかったが祈りによって主は美事に与え下さったのである。われらの神は活ける神である。ただ神の国と、神の義しきを求むべきである。こちらに罪や不信仰があると主は祈りにきき給うことができない。
- 第28号より 1956年(昭和31年)4月 『会堂新築に就いて』
“汝が幕屋の内を広くしなんじが住居のまくをはりひろげて吝(オシ)むなかれ汝の綱をながくしなんじの杙(クイ)をかたくせよ。そはなんじが右に左にひろごりなんじの裔(スエ)はもろもろの国をえ荒れ廃れたる邑(ムラ)をもすむべき所となさしむべし“(イザヤ54:4)
会堂新築に就いて
先日の京都聖別集会に於て思ったことは、此の火はやがて全地を焼き尽し日本を新にする火であるということであった。昨年秋は大阪に開かれ、この五月には東京都の真中で、八月には東濃「雀のお宿」にて聖別集会が開かれ様として居る。伝道戦線は関西から関東へ、更に東北へと拡大し、この秋には四国、中国へも及ぼうとしている。
さて名古屋の当教会堂は元建築事務所であったのを購入して満八年になるが、大分古ぼけて来てここ数年しか保たない状態にある。それに集会入教がふえると共に狭隘(キョウアイ)を感じ、間取りがわるく、部屋が少くて内に住むものにとっては不便多く、献身者や修養せんとする人々がふえるにつれて二階がほしく、日曜学校の分級をする為にもこのままではいけない。又クリスマスや復活節などには入り切れず、寒いのに外に立っている人が出来、やむなく帰ってしまう人もある。
昨年六月十日の私の誕生日にこの事が提案され、予算約四百万円で新築することに全会一教決定した。
私はそれよりニケ月程前から、毎朝四時頃に起きてこの為に祈っていたが
”御霊言い給う「我なり」”(使徒10:19、20)
の聖言を頂き、主自ら建てあげて下さるとの確信を得、以来信じ続け、祈り続けて今日に至って居る。主は御名の故に、日本のリバイバルの為によく之を落成し給わん。
”銀も我ものなり金もわが物なりと万軍のエホバいいたまう”(ハガイ2:8)
この上ともにみなさまの御加祷、御協力をお願いする次第です。
- 第29号より 1956年(昭和31年)5月 『新抱負』
"今生れし嬰児の如く霊の真の乳を慕えこれにより育ちて救に至らんためなり"(Ⅰペテロ2:2)
新抱負
新年度を迎えて、この頃考えている五つの希望に就いて述べたいと思う。
(1)聖書を皆さんによく読んで貰いたいこと。
毎日少くとも、3章(朝昼晩1章づつ)は読んで欲しいと思うのです。私は早天祈会の前に福音書1章と、詩篇を1篇、早天後新約書簡を1章よみます。又朝食後すぐモーセの五書を1章、昼食後すぐ歴史書を1章、夕食後すぐ予言書を1章よむのを常としています。
聖書をどの位、読みたいかは、その人の霊の健康状態のバロメーターです。
"今生れし嬰児の如く霊の真の乳を慕えこれにより育ちて救に至らんためなり"(Ⅰペテロ2:2)(2)各群の指導者が潔めに徹底すること。
あちこち廻りまして熟々思うことは未信者が救われることを願う前に先づ信者が潔められること、殊に指導的立場にある人が自我の死に徹底して頂かないとリバイバルの火は燃えていかないと言うことです。この為に聖別集会の必要を痛感します。
“教師たる我らの更に厳しき審判を受くることを汝ら知ればなり”(ヤコブ3:1)(3)献身者の養成
各地に救われるものが続々起ってもそれを培う人がないと折角の芽がしぼんでしまいます。
救霊救国の為に起ち上る青年男女を要すること切なるものがあります。
又聖書と祈りによって神の人を養成せんとする一麦聖書学校の充実を必要としています。
“汝先づ起ち上れ” (ダニエル10:11)(4)会堂新築の必要
四月号に掲載しました様に今後の新しき聖業を進めてゆく為に当教会新築の必要は必至であります。この予算額は約400万円と計上されています。
何卒この為にお祈り下され、神の国建設の聖業に御協力をお願い致したく存じます。
“殿を建てよさすれば我これを悦び、又栄光を受けんエホバ之を言う”(ハガイ書1:8)(5)祖国リバイバル
敗戦国の惨めな日本を救うものは、誰ぞや!!
昭和維新は神の御霊によれる維新でなければならないと私は確信するのであります。今や日本各地にこの火は燃えて奇して御業は到るところに拝されつつあります。
日本を御業によって新たにして頂くべく私は東奔西走、身命をなげうって、前進中であります。
“今よりわれは主なり われ行はば誰かとどむることを得んや”(イザヤ43:13)
4月24日朝 日光にて
- 第30号より 1956年(昭和31年)6月 『満五十一歳を迎えて』
“視よ我新しき事をなさん頓ておこるべし“
(イザヤ43:19)満五十一歳を迎えて
”視よ我新しき事をなさん、頓て起るべし”(イザヤ43:19)
昨年満五十才になりましたのを契機として名古屋のみならず日本各地(関西は勿論関東、東北方面まで)に戦の駒は進められるに至り、五日間の聖別集会が雀のお宿(岐阜県)志貴山(大阪府)一灯園(京都府)東京都と、この一年間に四ケ所で聞かれました。又恵により私の健康は大層強められ1ケ月間に亘る関東並東北伝道もさしたる疲労もなく頗る元気で帰名が出来ました。
扨(サテ)、今月十日満五十一才を迎えるに当り来る1ケ年間の希望を申述べたいと存じます。(1) 私自身いよいよ聖霊に満されて活ける水川々となりて流れ出づる迄になり日本の霊界に貢献するに足る器とならせて頂きたい。
(2) 献身者役員はじめ皆聖霊を受け一丸となってペンテコステ的リバイバルを拝させて頂きたい。
(3) 私はじめ会員交々到る処に遣わされて主の証詞をなし又遠近各地より多くの人々聖霊を求めてこの教会に集い来り或人は短期間の修養を或人は生涯献身してこの火を全国的に燃え拡がらせて頂きたい。
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