一麦の群

巻頭言集21-25

月報「活けるキリスト 一麦」巻頭言集 松原和人著

巻頭言集表紙巻頭言集本文

2009年2月第3週から週報に巻頭言集から抜粋し、「今週の霊想」として、毎週掲載しています。

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  • 第21号より 1955年(昭和30年)9月 『日本を救うもの』
    • “我に大なる憂(うれい)あること、心に絶えざる痛あることとを我が良心も聖霊によりて証す。“(ロマ書9:2)

      日本を救うもの

       このパウロの如く私共も日本の頽廃(たいはい)せる現状を見るにつけて大いなる憂、絶えざる痛を覚えざるを得ない。
      真の神様に従う国は栄え、逆う国の滅びることは万国興亡(こうぼう)の歴史が証明。日本は不幸敗戦の憂目(うきめ)を見たがこれが反って薬となり今こそ偶像邪神を捨てて真の神様に立ち帰るべき期なりと念願したのでありますが、初め2、3年は教会へよく集った青年達も最近では他へ走り日本の教会は一般的に見て今は振わない有様です。
      或る時私が「神様どうしたらよいのですか」と祈っていると、「お前、もう一ぺん信ぜよ、この教会を起したのはこういう時に役立てんが為である。設立当初の聖言の如く、新しき事をなさん これがこの教会に与えた約束である」との啓示を受けました。

       更に祈っていると神様は聖霊に満された神の人を多く起して聖霊維新を日本に起さんとの御心である事が判って来ました。主の弟子達はあのペンテコステの日から一変してしまったではないか。上よりの能力を受けたからである。聖霊とは殉教の霊である。白分の為に何かをするのではなく神の為、人の為に白分を捨てる霊である。今の日本に要するものはかかる人である。

       聖霊を受けることに就いて私は五つの事を申上げたい。
      (1)"父なる神の前に潔く責むべきところなからんことを" 今朝神の聖前に責むべきところはありませんか、あなたは潔くありますか。(2)”汝ら飜(ひるがえり)りて幼児の如くならずば天国に入るを得じ” (マタイ18:3)生れつきのまゝでは謙(へりくだ)れない。子供の様に単純に信ぜられない。高ぶって大人心になっている為に神様とピントが合わない。(3)次に絶えず心配したり御心を痛めたりする将来の弱点、悪癖から潔め別たれねばならない。高ぶり、肉欲、世の誉、不信仰の罪からも。(4)聖霊に満される為には、あなたにつける凡てを神様に献げ一切主にに御一任申し上げることである。(5)自分には力がある。信仰がある。知識があるなどと高ぶって居てはなりません。いつも自分を無にしておるべきです。又白分の力を過信して何か出来る様に思ったり、又自分で何かをせねばならぬ様に誇ってはなりません。それが白我です。

  • 第22号より 1955年(昭和30年)10月 『霊火燃え上がる』
    • “既に時到れり審判は神の家より始るべし“(Ⅰペテロ4の17)

      霊火燃え上がる

       八月末「雀のお宿」の聖別集会の少し前より火は燃え初めていた。私は青年会の中から燃えて来た様に思う。昨年十月から青年会のみで毎週祈祷会をもつ様になって青年会の空気一変、専(もっぱ)ら祈祷を楽しむ様になっていた。献身する青年も二、三名起った。この火は義しい火である。悪を少しも許さぬ火である。自己を放棄し、一切を献げ切って神の国を来(きた)らす為、救霊の熱愛に燃え上がらずば止まない火である。今やこのリバイバルの日は唯に名古屋に止まらず関西各地に燃え上がり、東京都にも燃え、更に東北方面にも燃え拡がろうとしている。燃えよ、火よ!日本の極々までも!

  • 第23号より 1955年(昭和30年)11月 『秋の東北伝道中止』
    • “汝地の表を新にし給う“(詩篇104・30)

      秋の東北伝道中止

       この六月以来、舞台を関東に関西にと移して東奔西走、名古屋に居るのは三分の一という有様。即ち御霊は名古屋のみに留まることを許し給わず、日本各地に火を燃やし、リバイバルを興(おこ)して聖霊によれる昭和維新を将来せんとしてい給うのである。
       ところが夏以来の相続ぐ戦が私の身体に過労を来したか、疲労の為胃をわるくし続いて風邪を引込み胸が苦しく熱が高くて臥床(がしょう)せねばならなくなりました。ベッドにあって熟々(つらつら)思う。神はかかる罪深き不信仰な者を立てて今日迄お用い下さった。全く恩恵というの外はない。たといこのまま倒れても悔いるところはない。然しこの日本の現状を思いみる時今倒れてしまってはいかにも惜しい。まことに不遜な様な言表し方で申訳ないがどうしても今一度起たせて頂いて日本全地のリバイバルの為にお用い頂きたいものである。

  • 第24号より 1955年(昭和30年)12月 『神癒により各地に火燃え移る』
    • "群衆は跛(あしなえ)者の歩むを見て之を怪しみ、神を崇めたり"(詩篇104・30)

      神癒により各地に火燃え移る

       帝都東京に活ける主を証し、この火を燃え上らせて頂き度いとずっと祈って来たが遂に一昨年五月九日、太田区久ヶ原に於て最初の集会をもった。その夜、神癒の聖業が拝され、70年間リューマチスに悩まれた大加田姉が瞬間的に癒されて四囲の人を驚かせた。かつて東京に牧会、当時は岩手県水沢教会の教師をして居られた佐野先生が東京に出て来られて大加田姉のスッカリ癒えて歩行するのを見て驚嘆、水沢に帰ってその証詞をされた。 その話が大石君の耳に入った。同君は十二指腸虫の為入院中、薬の中毒に罹(かか)って難聴となり学校へ行っても先生の話が聞えなくなった。その為に彼は何度も白殺を図った両親にとってはかけ替のない独り息子である。何とかして助けたいと医薬に頼ったが万策尽きたその折しも佐野先生の証をきき、矢も楯もたまらず、単身、遠路名古屋に一麦教会を訪れたのは今年三月であった。すぐ癒えはしなかったが信仰を与えられて喜び勇んで帰った。

       更に去月26日には東京より大加田老姉その人を主は名古屋に送り給うて驚くべき証をなさしめ、8日間に亘り守山、大府、更には大和高田及京都へ迄遣し給うて一同を感激のルツボに放り込んだ。かくて神癒の聖業は名古屋に東京に京都に東北にあちこちにと進み各方面の要望に私は東奔西走日も足らざる有様である。来る新年聖会には神癒に用いられつつある東京の井上師を講師に招聘(しょうへい)、更に新なる聖業を拝せんとしている。

       願くはリバイバルの火全地に燃え移り活ける主の聖名の崇められ給わんことを。

  • 第25号より 1956年(昭和31年)1月 『神癒解説』
    • “我はエホバ(全能の神、万古不易の神)にして、汝を医す者なればなり“
      (出エジプト記15:26)

      神癒解説

       私はかかる論説を書くにふさわしいかどうか知りませんが、此の頃あちこちに主による癒しの聖業が拝され、漸(ようや)くこういった点に世問から注目されて来ている様でもありますので、この問題をテーマとして執筆致しました。我らの信ずる全能の神は、霊的な面の救をなし給うだけでなく、肉体の方面の救、即ち神癒をなし給う御方であることは、誰にも首肯して頂けることだと思います。何となれば、神様は、精神―心霊のみをおつくりになったのではなく、肉体―物質をもお創りになった御方だからであります。物心両面の救主ではなくては、真の神様とは云われません。我らの、日常百般の問題を、神様即ち主キリストに持って来るならば、みな解決して頂けるのであります。さればこそ我らは。神様に凡てをお委せ出来るのであります。

       私共の教会は、設立当初より、主イエス様に頼れば、罪の問題は勿論、経済問題も、病気の問題も解決がつくと云うことを折にふれて宣べ伝えて参りました。殊(コト)に、神癒(シンユ)を信じて来た為に、或る人からは「あれは異端である」「新興宗教の類である」と非難され、又他の方面からは「神癒を唱えながら歯医者へ行ったり、冷水摩擦をしたりハブ茶を飲んだりするとは、けしからん」という風に誤解を受けたこともあります。そこで神癒とは、どういうものかを、正しく知って頂く必要があると思うのです。もっとも、私も段々とこのことを教えられ、今尚研鑽(ケンサン)途上にあるにすぎませんから、色々な誤解や曲解を受ける度に、私共がまだ至らない為だと反省するのであります。

       さて、この神癒ということは、聖書に明瞭に記された真理であって、主イエスが病める者を癒し給うたことは、福音書その他に、幾多の実例があります。又、十字架は、罪の為のみならず病の為でもあることは、イザヤ等が予言し(イザヤ書53章)主は、またそれを肯定していらっしゃるのであります。(マタイ8:16、17)
       又、病の癒しは、使徒行伝にある様に、弟子達を通して行われました。その弟子達を用いて癒しを行い給うた主は、二千年後の今日も、同じく信ずる者に聖業をあらわして、御白身の活ける事を示し給うのであります。医薬でなんともならなかった病人が、主を、癒主と受け入れた結果、奇しくも癒された例を、私共は多く知っているのであります。ここで注意せねばならぬのは、祈った人が癒したのではないと云う事です。人は、ただ管となっただけで、癒し給うたのは、主キリスト様であります。崇めらるべきは、人でなく、あくまでイエス様であるべきです。従って、神癒という事実に目をつけないで、宜しく癒主なるキリストを讃めまつるべきであります。

       又、神癒は福音の一部分であって、一番大切なことは、霊魂の救であるということも忘れてはなりません。「病が癒されたからもうよい」といって、霊魂が救われず、生れ変らなかったとすれば、御利益信仰・偶像教と、何ら変ることがありません。
       されど讃むべきかな、神癒によって癒された人々にして、霊の救われなかった人は、私の知れる限りに於ては、ほとんどありません。次に、私共は「医薬を無視し、科学を否定している」とよく云われます。これは誤解であって、決してそんな事は云って居ないのであります。しかし科学は万能ではないが、神様は全能である、と云う事を知って頂きたい。医薬以上に神様が信頼できた人にとっては、自然に、無理なく、医薬を用いなくてもよくなるのであります。さればといって、ある意味の手当てを、必要とする場合があると思います。寒いと思えば、着物を多く着て暖かくするし、便秘すれば、野菜を多く食べる・・・これも広い意味の医学でありましょう。パウロも、テモテがよく胃病になるので、葡萄酒を飲めとすすめています。(テモテ16:23)ヨードチンキをつけることも、悪いと思えばやめるがよいが、心に咎めを受けない人は、つけたところで差し支えないのであります。

       信仰は、その人、その人によって定むべきで、決して、人に強要したり、人まねをすべきものではなく、その時、その時、主にきいて、善処(ゼンショ)すべきであります。主は、必ず為すべきことを都度々々に教えて下さるお方であります。私は、歯医者へ行って治療を受けます。若し神様が「それはいけない」とおっしゃれば、私はやめます。しかし、そんなことは一向におっしゃらないから、行くのであります。歯医者に絶対行くなと云うのは、今の私には無理であります。神様は、無理なことはおっしゃいません。私共は、人前でなく、神様の前を歩むべきで、どんなに人から云われても、苦にすることなく、ただ真実に、聖声に従えばよいのであります。
       “汝に何の関係あらんや、汝は我に従え"(ヨハネ21:22)

      (12月17日、車中にて脱稿)

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