一麦の群

巻頭言集11-15

月報「活けるキリスト 一麦」巻頭言集 松原和人著

巻頭言集表紙巻頭言集本文

2009年2月第3週から週報に巻頭言集から抜粋し、「今週の霊想」として、毎週掲載しています。

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  • 第11号より 1954年(昭和29年)11月 『守山一麦伝道所開設』
    • “此はエホバの御作爲(みわざ)なり“(詩篇22:31)

      守山一麦伝道所開設

      &size(18){我らは既に数年前よりこの市の伝道の為に祈りをもって時の到るのを待ち望んで来た。その祈祷は遂に応えられて、近頃頓(とみ)に求道者が増し御霊は著しく、神様は守山在住の熊木姉に「神に近づき臨在を仰げ」との聖言をもって迫り集会所の建設を企(くわだ)てしめ給うた。菊花香る文化の日を賭(と)して新守山伝道所の献堂式が30数名の列席を得て挙行された。祝辞があったが熊木姉の自分の為にはなりふりかまわず節約の限りを盡(つ)くし神様の為にはこの尊い献納をされた美挙をたたえ、「千万円の建物にもまさる教会である」この式に列した人は皆喜悦(よろこび)に輝き畏(おそ)れひれ伏して御名をほめたたえ感謝した。“この工事は我らの神の為し給いしものなりと暁(さと)りたればなり”(ネヘミヤ6:16)。
      };

  • 第12号より 1954年(昭和29年)12月 『西本・渡辺両姉の竒(き)禍(か)に学ぶ』
    • “神の懲(こら)し給う人は幸福(さいわい)なり、然(しか)れば汝全能者の儆(いま)責(しめ)を軽んずる勿(なか)れ、神は傷(きずつ)け又裏(つつ)み撃(う)ちていため又その手をもて善く医(いや)し給う“
      (ヨブ5:17・18)

      西本・渡辺両姉の竒(き)禍(か)に学ぶ

      去る11月26日午後9時半頃西本敦子、渡辺房子両姉が池下電停安全地帯にて名駅行の電車を待合せいたる時、覚王山方面より疾走し来りたるオート三輪にはねられ、その場に昏倒(こんとう)直ちに附近の外科医院にかつぎ込まれて手当をうけた。一羽の雀だに天の父のみ許(ゆるし)なくしては地に落ちない。西本姉は病院にかつぎ込まれ乍(なが)ら「おお主よ感謝しますハレルヤ」と叫びつづけ彼女等は「神様は私を愛する故にこの懲戒(こらしめ)を与えて下さったのだ」と信じ、警察官より尋ねられた時も「運転手を罰しないで下さい。その方がイエス様に救われなさる事を願うのみです」と答えた。感動を受けた運転手は教会の集会に出席するようになり聖書と讃美歌を買って今は求道中である。この事件は二人のみの問題でなく一麦教会全体に対する神の愛の警告であると思う。

  • 第13号より 1955年(昭和30年)1月 『新種の希望』
    • “凡て何に関わらず勝利を獲んとする者は何事にも節し慎むものである“ (コリント9の25)

      新種の希望

      願うのはただリバイバルの起こらんこと、六月十日を以て私も満五十歳となる。それに就いて次の三つの事柄を考えたい。(1) 凡て何に関わらず勝利を獲んとする者は何事にも節し慎む(コリントⅠ9-25)私も今年に入って食物の点に特に光を受けた―腹八分にし間食をつつしむ様しめされた。この事は健康にも大いに関係すること(2)どうしても火が燃えなければならない。信者各自が明確なる聖霊のバプテスマを受けることで。それには自我の真相をしめされて十字架上完全に磔殺(たくさつ)され終りをることをハッキリ体験せねばならない。(3)「見ざる聞かざる言わざる」という諺があるがどういう性情性癖の霊魂にも信仰や考方の異る人に対してもこれを決して心の中で審くことなき様、まして口で批評する事は絶対に避くべきである。人を審くことは何よりのリバイバルの妨げである。

  • 第14号より 1955年(昭和30年)2月 『リバイバルの期待』
    • “われ聖言によりて望をいだく“(詩篇119:114)

      リバイバルの期待

      今年に入ってから専(もっぱ)らリバイバルの為に祈って居る時神様は教え給うて先づ身体の健康を保つ様次には霊が輝くばかりの信仰を得る様にとお導き下さった。
      (第一)甘いもの、間食をやめ、食事は腹八分にこれを断行した結果は大むね胃の具合がよく精神爽快にして霊にもよい影響がある。(第二) “われ聖言によりて望をいだく“ (詩篇119:114)どうすればリバイバルの聖業が拝せられるのだろう。あゝでもないこうでもないまだ足りないからだなぞと考えたりして祈って来たが近頃になってから「もう自分を見るな。その要はない」との啓しを頂いた。爾来(じらい)、もがき苦しみはやんで霊は楽になり、いうにいわれぬ安息になった。自分を見ないということは実に嬉しいことである。全托無我とはこのことである。

  • 第15号より 1955年(昭和30年)3月 『霊火燃えんとす』
    • “天国は一粒の芥(からし)種(たね)の如(ごと)し“(マタイ13:31)

      霊火燃えんとす

      当教会の一麦という小さい一粒の麦が13年経って漸(ようや)く少し教会らしくなって来た。どうかして会堂一杯入り切れなくなる様に、いろんな先生にあちらこちらから来てもらって各教会各教団と一致協力して進めば忽(たちま)ち出席者の数もふえ、この教会はリバイバルであるという考え方がある。然(しか)し御業によって教えられるのにこれは人間的方法であり教にとらわれた考え方であって初めはよさそうに見えてもやがては火が消えてしまうことを知らねばならぬ。御霊の声はこうである各会員が徹底的に潔められることである。一人が潔められゝばまわりに火がつくのである。然(しか)らば潔めとは何であるか。信者が自我に死に聖霊に満たされることである。

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